【理論探究-3】 フェミニスト法理論①B

1.はじめに

 前回のブログでは、フェミニスト法理論の前半、すなわち「同化モデル」(assimilation model)と「差異を認めるべきという議論」(celebrating difference)の2つを紹介しました。

 「ケアの倫理」は従来、上記の「差異を認めるべきという議論」の中に位置づけられてきました。それは、「ケアの倫理」が従来、男性と女性には異なる倫理観・道徳観があるとする議論であると誤解されてきたことに起因します。ただ、実際には、「ケアの倫理」の提唱者であるキャロル・ギリガンは、そのような短絡的な議論はしていません。現在の最新の議論では、「ケアの倫理」、すなわち他者を思いやり、慈しむということは、むしろ人間の本質であると考える議論が発展しています。

 さて、上記の議論はまた後日論じるとして、本ブログでは、フェミニスト法理論の後半、つまり「差異を認めるべきという議論」以降に登場したフェミニズムの系譜をご紹介したいと考えます。これらも、フェミニズムや法を語るうえでは避けては通ることのできない、非常に重要な議論です。

2.フェミニスト法理論②:支配理論と現代理論

i)支配理論(dominance)

 20世紀後半に、「同化モデル」及び「差異を認めるべきとする議論」を強く批判する議論が登場しました。それは、同化しようが差異を強調しようが、問題の本質はそこにはない、むしろ女性が男性に支配されているという構造自体を直視すべきという議論であり、これを「支配理論」(dominance)と呼ぶことがあります。

 その代表的論者が、いわゆるセクシャル・ハラスメント(「セクハラ」)概念を生み出し又は明確化したとされる、米国弁護士のキャサリン・マッキノン(Catharine MacKinnon)です。彼女は、問題の本質は、男性があらゆる領域において女性を支配していることにこそあると捉えました。以下、いくつか例を見てみましょう。

a) セクシャル・ハラスメント

 「セクハラ」について、一昔前は、男性が女性に対し、会社組織等において、性的に不快なことを言ったり、身体に触れたりすることは、ほとんど問題視されていませんでした。「セクハラ」という用語自体が知られるようになり、少しずつ改善はみられるとはいえ、残念ながら、「セクハラ」被害はなくなっていませんし、私もセクハラ被害の法律相談を受けることが常に一定数あります。例えば、「このご時世、セクハラには厳しいからね」などという(多くの場合、年配の)男性に出会うことが少なくありませんが、こうした発言自体が未だにみられること自体、「セクハラ」概念が正しく理解されていないことの証左ではないかと考えます。

 では、「セクハラ」とは何か。それは一言でいえば、男性が女性を差別し又は力で支配することと言えます。こうした本質を指摘し、「セクハラ」概念を明確化したのが、キャサリン・マッキノンらということになります。すなわち、「このご時世」だから問題になるのではなく、「セクハラ」には女性蔑視・支配が含まれているからこそ、いかなるご時世であっても許されてはならないのです。

 最近では、男女にかかわらず「セクハラ」の被害者となり得るし、性的に不快な思いをするすべての場合を含むと解釈されています。もちろん、この議論は歓迎すべきことですが、「セクハラ」概念が生み出された背景・本質を正しく理解しなければ、「セクハラ」を根絶することができないのではないか、と私は考えます。

b) ポルノブラフィ 

 キャサリン・マッキノンはその他にも、例えば、ポルノグラフィ等に鋭い批判を向け、ポルノグラフィはまさにこうした男性の女性に対する支配の典型であるとして、これを禁止する反ポルノグラフィ条例を制定しようと試みたことがあります。この運動は結果的に失敗には終わっていますが、このように理論を実践に移そうとしたことは大きな意味があったように思われます。

c) ドメスティック・バイオレンス

 さらに、近年、欧米では、ドメスティック・バイオレンス(Domestic Violence, DV)の定義として、相手を支配する行動にこそその本質があるという定義が用いられる傾向にあります。

 例えば、英国では近年、DVを「心理的、身体的、性的、財政的、感情的」であるかを問わず「支配的(コントロール)、強制的又は脅迫的な言動、暴力又は虐待のあらゆる出来事ないしパターン」(Legal Aid, Sentencing and Punishment of Offenders Act 2012)附則1-12(9))などと広く捉え、相手方を支配する行動パターンにその本質があることを明確に示す定義が用いられています。こうした考え方もまた、上記支配理論の発展が寄与しているところが大きいと私は考えています。

 他方、日本ではどうでしょうか。残念ながら、DVの本質もまた、日本では十分理解されていない嫌いがあります。

 例えば、「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律」(いわゆる「DV防止法」と呼ばれる法律です)では、「配偶者からの暴力」は、以下のように定義されています。英国の定義と比較すれば、その認識の違いが歴然とわかると思います。

「配偶者からの暴力」とは、配偶者からの身体に対する暴力(身体に対する不法な攻撃であって生命又は身体に危害を及ぼすものをいう。以下同じ。)又はこれに準ずる心身に有害な影響を及ぼす言動(以下この項及び第二十八条の二において「身体に対する暴力等」と総称する。)をいい、配偶者からの身体に対する暴力等を受けた後に、その者が離婚をし、又はその婚姻が取り消された場合にあっては、当該配偶者であった者から引き続き受ける身体に対する暴力等を含むものとする。

 上記のような定義が用いられているために、日本では、DVのことを単なる暴力の問題と捉える人もいます。しかし、それは明確に違います。暴力等を用いた「支配」・「コントロール」、それがDVです。したがって、女性が男性に対し、男性からの暴力に抵抗して行った反撃は、暴力かもしれないがDVではありません。それは「支配」ではなく、「抵抗」だからです。

 以上のように、支配理論は、法の世界においても極めて重要な意義を有してきました。しかし、この支配理論も万能とは言えません。まず、本当に全ての女性が男性の支配下におかれているといえるのかという疑問が提起されました。また、この理論は、男性と女性という二分法(バイナリ―)を大前提としているため、LGBTQ+をはじめとする人たちを排除するものとして強く批判されてきました。

ii) 現代フェミニズム(第4波)

 以上を踏まえ、現代では、フェミニズムサイドから、様々な主張がなされています。この流れを一つの用語でまとめることは困難であり、通常、第4波フェミニズムと言われることもありますが、以下では、どのような主張が行われているのか、簡単に見てみましょう。

 第一に、上記の男女の区別にこだわる議論に反省を迫るものとして、ジュディス・バトラー (Judith Butler)の『ジェンダー・トラブル』等が位置づけられるものと思います。バトラーは、こうした男女の二分法(バイナリ―)を厳しく批判し、男女という二項対立から脱却すべきと主張しています。

 第二に、マーサ・ファインマン(Martha Fineman)による、すべての人が何らかの形で脆弱性(vulnerability)を備えているという考え方も、性別を超えた主張であり、非常に重要な考え方であると考えます。また、ジェニファー・ネデルスキ―(Jennifer Nedelsky)は、他者との関係性(relationality)の重要性を説いています。これらの主張は、「ケアの倫理」にも通じるものがあり、私も大いに親近感を抱いています。実際、へリング教授の理論は、関係的福祉理論も含め、「ケアの倫理」のほか、こうしたvulnerabilityやrelationalityという考え方を踏まえ、互いに支えあうことの重要性を踏まえて法の構築を目指しているものと思われます。次回以降に、詳しく述べたいと思います。

 第三に、若干異なる系譜ですが、キンバール・クレンシャー(Kimberlé Crenshaw)による、「インターセクショナリティ」(intersectionality)という理論、すなわち、例えば、平等の有無を判断するに際し、白人と黒人といった区別だけでなく、白人女性と黒人女性といった2以上の複数の交わり(intersection)ないしファクターを同時に考慮する必要があるという主張も、現在のフェミニズムの一つとして重要な考え方であると思われます。

 以上の議論を踏まえ、「フェミニスト法理論」は、従来の法主体性、すなわち(一見)性別に中立的でかつ抽象的な人間像(自由意志を持ち、自律・独立し、合理的な人間)自体も強く批判しています。すなわち、実際には、人はみな、完全に自律・独立した存在ではありえないし、誰しもが相互に依存しながら生きていいるのであり、こうした現実のかつ具体的な「人」を想定したうえで法を再構築すべきというものです。

 また、同じように、「フェミニスト法理論」は、従来の権利概念(Rights)自体も強く批判しています。すなわち、従来の権利概念は、非常に個人主義的なものであり、常に互いに対立/競合するものとして捉えられてきたことを批判し、権利論はもはや有用でないという主張すらあるのです。そこまで極端でなくとも、権利自体を他者との関係の中で捉えるべきという主張(上記ネデルスキーによるrelational rightsという考え方)も提唱されるに至っています。

 前回の記事で、フェミニスト法理論が、平等概念(equality)に対して鋭い批判を展開してきたことを紹介しました。フェミニスト法理論は、こうした、法主体性、平等概念、権利概念といった、従来当然のように考えられていた法概念を鋭く批判し、新たな法概念の構築を推し進めようとしているのです。

3.最後に

 駆け足になりましが、以上が現時点におけるフェミニズム・フェミニスト法理論の到達点であると思います。

 ただし、上記いずれかのフェミニズムの考え方が正しいということではありません。こうした様々な知見(「フェミニスト法理論」)を踏まえたうえで、個々の法及び諸制度を検討することが重要であると思います。

 私自身は、人は誰もがみな脆弱であり、それゆえにこそ人は互いに支えあって生きている、そして人の本質はまさにその互いに支え合うことに見いだされ、法が目指すべきなのは、公平かつ公正な関係性(=暴力や支配のない関係)を促進することにある、と考えています。

 これはまさに、「ケアの倫理」を主軸にしながら、男女の二項対立を避けつつ、支配理論や脆弱性理論、関係性理論をも踏まえた考え方です。こうした考え方をもとに法をいかに再構築すべきかについて、次回以降論じていきたいと考えます。