比較法文化:米連邦最高裁による中絶権の判断から考える

下記BBCサイトより転載

「米連邦最高裁、人工中絶権の合憲性認めず 重要判決を半世紀ぶりに覆す (BBC Japan)

私の大学での専攻は「比較法文化論」という分野でした。その名のとおり、法と文化の関係性を比較法の観点から探求する、というものです。

卒業論文では、妊娠中絶について、ドイツと日本の法規制・法文化を比較しました(読めたものではありませんが。。)。

ドイツと日本の比較とはいえ、一つ、常に意識していた判決があります。それは、この分野で世界的に著名かつ先駆的な判断とされる、女性の人工妊娠中絶権を合憲と判断した1973年の米国「ロー対ウェイド」判決です。法学部生であれば一度は聞いたことのある著名な判例の一つです。

この判決が今年6月24日、米連邦最高裁において、半世紀ぶりに覆されました。これにより、アメリカでは女性の中絶権が合衆国憲法で保障されなくなりました。その影響は決して小さくないはずです。

実はこの判断前の5月頃、Alito判事の書いたとされる意見書草稿が外部に洩れ(最高裁判事一覧ご参照)、ロー判決が覆るのではないかと言われていました。その時点では多くの人が半信半疑だったのではないかと思いますが、蓋を開けてみれば、当該草稿は本物で、実際にロー判決が覆されるに至りました。

米国最高裁判事は終身制であり、時の政権が空席ポストの判事を任命することになるため、司法に政治色が強く反映されるという特殊なシステムになっています。司法判断にその時々の政治色が反映されるため、その観点から過去の判例が覆される可能性は常に存在するのでしょうが、それでも今回の判決はやはり多くの人(特に米国外)には驚きを持って迎えられたのではないかと思います。

ただ、私がこの記事で述べようとしているのは、今回の判決の当否ではありません(私には何かを述べるに足りる見識も資格もありません)。

話を戻せば、私が過去に研究したのは、中絶規制から垣間見える各国の法文化(その定義も難しいところですが)です。

米国での論争は、宗教的信条の影響が極めて色濃く反映されていることは間違いありません(プロチョイス、プロライフ等)。今回の報道でも、その観点からの指摘が非常に多かったように思います。しかし、この問題が宗教的信条だけに帰着できるかといえば、決してそう単純ではないのではないかというのが私の考えです。

実際私は、日独の法規制(規制の仕方や条文の書き方、他の条文との関係、判例の考え方等)自体から、中絶規制の背景として、当該文化において、胎児とは何か、母体と胎児との関係はどう捉えられているか等を検討することを試みました。例えば、中絶が一部犯罪とされる国々では、中絶に関する法律規定がおかれる場所はどこなのか、どのような条文になっているのか、そうなったのはどのような経緯からなのかを検討しようとしました。そして、実際、各国において、規制のおかれる場所は異なりますし、それが変遷することもあります。例えば、規制の場所について言えば、殺人や傷害と同様に類型化される場合もあれば、遺棄に近いものとして類型化されることもあります。あるいは、全く規制をおかない場合もあります。それは決して偶然ではなく、各国の立法に際し検討されているのです(日本では、明治時代の議事録が残っています)。宗教的な影響はあるにせよ、当該文化圏において培われた様々な考え方の土台の上に、中絶の規制もなされているのだと考えられるのです。

法と文化の関係を探求することは容易ではありませんが、法律家として、決して興味が尽きることのないものといえます。

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